2004年10月 

ソウル市・清渓川視察

ソウル訪問

「第2回世界都市河川ルネッサンスフォーラム」開催地下見、清渓川視察と地元関係者との交流

2004年10月30日~11月1日






Seoul is One ~清渓川の流れを取り戻したソウルのエネルギー~

渋谷川ルネッサンス 池田正昭

 もっとも交通量の多い中心市街の幹線道路を全長5.8kmにわたって高速道路の高架ともども取り壊し、川を復元したという大事業である。いくら“対岸の”出来事とはいえ、さすがにこんなスペクタクルなニュースが日本にも伝えられないわけがない。

いつ(when)、どこで(where)、なにが(what)については、一般のメディアやウェブ等でもかなり整理された情報が見受けられるようである。誰が(who)といえば、次期大頭領候補と目されるやり手のソウル市長の名が挙げられ、彼のトップダウンで実現した公共事業と喧伝されるのがもっぱらだ。もちろんそれが事実と異なるわけではない。しばらく前までは、われわれにもその程度の認識しかなかった。

だが、市長のもとで実際に動いたのは誰か、そもそもその市長を動かしたのは誰か。彼らを動かしたモチベーションはなんだったのか(why)。そこがみえていないと、この壮大なプロジェクトがどのようにすすめられたか(how)、肝心の部分をつかむことはできないだろう。“対岸”をこちらに引き寄せて、日本の都市においてもありうべき取り組みとする「知恵」を学ぶことがわれわれの課題だ。情報を整理することが大事なのではない。知恵を学ぶために大事なのは「出会い」である。





1)清渓川との最初の出会い

 われわれ渋谷川ルネッサンスが主催し「第1回世界都市河川ルネッサンス・フォーラム」を東京で開いたのが昨年3月のこと。都市における河川・水辺環境の復元に取り組む世界の事例を紹介し討議する国際会議である。そのいくつかのケーススタディのひとつとして、ソウル清渓川(チョンゲチョン)を取り上げた。これが、当事者自らが日本で清渓川復元について語った最初の機会となる。

 われわれが聞き及んだ事前の情報から、適当なプレゼンテーター/パネラーとして2人の人物を招聘した。行政担当の立場からシン・ジョンホ(当時:ソウル市職員)、市民団体の立場からノ・スホン(延世大学教授)、その両名だ。われわれ自身、このイベントの企画をはじめるまで清渓川についてはなにも知らないに等しかった。ソウルで実際にプロジェクトに関わっている人が来日してくれるなら誰でもいいともおもえたし、ワンマン市長の肝煎りによる公共事業などは市民の手による川の復元をめざすわれわれのフォーラムの主旨に相応しくないのではないかという見方もあった。要するに昨年の3月に両名をはじめて東京で迎えたときは、まだ彼らが清渓川復元にどれほど重要な役割を果たしたキーパーソンなのかよくわかってはいなかったし、このプロジェクト自体の真の大きさも意義もちゃんと見えてはいなかった。また、着工してからまだ半年余りの時点で、初来日のこのときは彼らの側にも多少なりとも遠慮があっただろう。

 会う前は、この二人は反りが合わないだろうと勝手な想像をしていた。清渓川復元のプランは、最初にノさんが大学の同僚たちと草の根で立ち上げたものだ。ソウル市誕生600年にあたる2011年を目標に市民の力で川を復元しようと、ノさんら4人の学者たちが呼びかけをはじめたのが発端だ。しかし、実際の復元計画はソウル市の純然たる公共事業としておこなわれた。それも工期わずか2年という短期間のうちに(着工は2003年7月)、この秋に完成してしまった。イ・ミョンバク候補がソウル市長選挙の公約のひとつにあげていた清渓川復元計画が当選後ただちに実行されたかたちであるが、その話だけをきけば、市民運動の可能性の芽を摘み取ってでも、市長が手っ取り早く手柄をたてたかっただけではないのか、と勘ぐってしまう。当然、当初から運動を推進してきた市民団体のリーダー的存在であったノさんと、市当局の担当者だったシンさんとの間には今でも大きな溝があるにちがいないとおもえた。しかし、2人と知り合ううちに、清渓川復元の“ほんとうのところ”がわかるにつれ、それは下司の勘ぐりどころか単なる誤解であったと悟る。もちろん立場上の違いからまったく溝がないということは考えにくいが、両者は驚くほどの相互理解に支えられている。そこに明らかな「一致」がある。

 これ以降、シンさんとノさんとわれわれ渋谷川ルネッサンスとの交流がはじまる。自分たちが培った知恵と経験をできる限りわれわれとシェアしたい。つねにそんな姿勢で誠実に接してくれる彼らの存在は、「春の小川」再生運動を推進するわれわれにとって良き師であり良き友である。

2)ワールドカップから清渓川へ

 2005年9月30日。清渓川復元完成式(清渓川フェスティバル)の前夜祭にあたるこの日、渋谷川ルネッサンスのメンバーの大半がソウルに到着した。清渓川復活のタイミングに合わせて、10月2日に「第2回世界都市河川ルネッサンス・フォーラム」を開催することが目的だ。

 金甫空港から地下鉄で市街に向かうが、電車のなかでも駅構内でも、清渓川の完成とフェスティバルを告知する宣伝の類いをいたるところで目にする。広告主はソウル市なのだろうか。これだけの露出となると、広告予算も半端なものじゃないだろう。あとでシンさんにたずねたら、ソウル市長イ・ミョンバクは広告PR戦略をとても重視していて、予算はいくら投下してもかまわないと考えていたそうだ。清渓川復元工事の総工費は約350億円というが、憶測ながら広告宣伝にもその10分の1ぐらいは掛けられているのではないか。ポスター、看板等の露出の多さもさることながら、PR映像の出来栄えには目を見張る。これまでにソウル市が作成したCMやPV(プロモーションビデオ)の映像をまとめたDVD(CDもついている)を入手した。これとてフリー配布の宣材である。韓国語と英語のバイリンガルで構成され、これをみれば清渓川のすべてがわかり、しかもゆたかなイメージの中を川が流れ出す。歴史ドキュメンタリーあり、川の再生を夢見るCG映像あり、水源の伝説を物語るアニメあり、工事の模様と苦難をダイジェストした“プロジェクトX”あり。国民的歌手チョウ・ヨンピルが清渓川のテーマ曲をうたうミュージックビデオは、純愛韓流ドラマ風。いずれも映像のクオリティはかなり高い。世界のどこに出しても恥かしくないようちゃんと計算されている。

 このDVDの最後にソウル市自身のCMとPVが収録されている。もちろん清渓川の映像も盛り込みつつ、ソウル市の魅力と活力を余すところなく伝えようとした6分あまりのプロモーションビデオだ。タイトルは「Seoul is One」。力強いコピーだ。映像をみれば言わんとするところがよく伝わる。だが、決して表現上のうわべだけのキャッチフレーズなのではない。まさにこれが、都市としての競争力を高めるためにソウルが選択したコンセプトであり、都市ソウルの新しい千年紀のための新しいパラダイムにほかならない。ソウルがひとつになる・・・その大きなきっかけとなったのが、2002年のワールドカップだ。映像は、赤いユニホームのサポーターたちが勝利に沸き返る当時の様子を振り返るところからはじまる。ソウル市庁舎前の広場に何万という市民が集まり歓喜していた映像を覚えておられるだろう。韓国代表チームのベスト4進出という快進撃もさることながら、人がひとつに集まる「広場」がない東京はソウルのその姿を少し羨ましくおもったものだ。東京にとってはサッカーのイベントでしかなかったワールドカップが、ソウルにとっては「歴史」そのものとなった。東京はワールドカップをすぐに過去のものにしてしまったが、ソウルはそこから未来を見出した。サッカーでひとつになることで生まれたエネルギーが、そのまま清渓川の復元につながったのだ(2002年6月30日にワールドカップは閉幕し、7月にソウル市は清渓川復元計画を発表した)。ソウル市のPR映像からそんな生きたストーリーが読み取れる。02年の歓喜の支庁舎前広場。そこが今回、清渓川フェスティバルの前夜祭会場になる。

3)ソウル市民1000万人の作品

 地下鉄を降りて地上に出ると、外は雨。かなりの大降りだ。前夜祭は中止だろうか。明日の本番も心配になる。チェックインしたホテルの窓からソウル市庁舎と広場がしっかり見下ろせる。雨の中、式典の準備はすすめられているようだ。ホテルの近くで昼食をすませて、さっそく川に向かう。復元された清渓川の「始点」まで歩いて数分の距離だ。つまり、市庁舎のすぐそばから川は姿をあらわしている。ちょうどあの広場が源流であるかのように。まさにそこに集まっていた市民のエネルギーが川の流れをつくり出したかのように。ソウル市長イ・ミョンバクは言う。「これ(清渓川)はソウル市民1000万人の作品である」と。実際に歩いてみて、「広場」と「川」の位置関係がその言葉を少なからず納得させる。

 はじめて川をこの目でみた。大雨をのみこんで川は轟々と音をたてて流れている。橋の上や川の周囲に式典会場や仮設のステージがしつらえてあったり、テレビ局のサテライトブースが設けられている。機動隊もいて、かなり物々しい。しかしソウルをはじめて訪れた者にとっては、川は当たり前のようにそこある。清渓川の流れは漢江(ハンガン)から引き込まれている。大都市の真ん中を貫く大河の流れのバイパスが清渓川だ。つい最近まで、ここは四六時中渋滞で“流れの悪い”道路だったのであり、たしかにこの川の流れは今つくられたばかりにちがいない。だが、昔から川はあって、川を中心にして、後から周りに道路や建物ができた、と言われても不思議な気はしない。歴史の感覚として必ずしも倒錯しているわけではないだろう。むしろそのほうが正しいかもしれない。川は悠久の歴史を流れてきたのだから。少しの間、道路で蓋をさせてやっていたにすぎない。川は、ずっと、そこにある。

 護岸は親水空間として整備されているだけでなく、壁画等の装飾が施されたり、そこにはさまざまな演出・仕掛けがある。それをして「テーマパークみたいだ」と揶揄する向きもある。「自然vs人工」という図式でとらえるなら、たしかに清渓川は決して“自然っぽく”川を復元したわけではない。だが、この流れは本物だ。それでじゅうぶんだ。自然か人工か、なんてケチな対立を超えている。ユーラシア大陸の“大自然”が目の前を流れている。

案の定、前夜祭は雨で中止。だがクラシックコンサート等のその中身は本番の明日に延期して開催されることなった。

4)4人のキーパーソンによる「Seoul is One」

 10月1日。ソウル市民にとって歴史的な一日がはじまる。この日、渋谷川ルネッサンスの一行は朝からロッテホテルに集結。ソウル市が清渓川復元を内外にアピールする目的で、きのうきょうと2日間開催する「ソウル世界市長会議」を見学する。世界各都市の市長が数十名、ソウル市長のもとに一堂にここに会する(ちなみに東京都知事はご欠席)という華々しい外交の舞台が整えられた前日のプログラムにつづき、きょうはテーマごとに清渓川復元プロジェクトの実体に迫る分科会の各セッションが行なわれている。登壇者たちは世界から招かれ、この日も会場には華やかな雰囲気が漂う。都市の水辺環境をテーマにしたセッションでは、渋谷川ルネッサンスの代表である尾田栄章が議長役をつとめ、パネラーの一人に石川幹子教授が名を連ねた。主催者のソウル市の立場で、会議全体をコーディネートしたのがシンさんだった。この他、建築デザインおよび住民の合意形成をテーマにしたセッションなども開かれていたが、やはり外交の色彩が強く、われわれが期待するほどの突っ込んだ討議は行なわれなかったようだ。とくに後者のセッションに、チェ・ドンユンとイ・ウンジェがいないのは盛り上がりを欠いたと言わざるをえない。当事者不在のまま一般論としての研究テーマの発表に終始した感は否めない。チェさんとイさんの名コンビ(!?)は、「世界都市河川ルネッサンス・フォーラム」にとって重要なキーパーソンであったばかりでなく、事実上、清渓川復元を実現させた最大の功労者なのである。

 清渓川復元に向かうにあたってソウル市が直面したいくつかの大きな壁があった。治水の問題、交通問題、文化財保護の問題・・・。とりわけ日本人の関心を惹きやすいのが自動車の代替え輸送の問題のようだが、市当局にとってそれはあらかじめ解決可能な問題にすぎなかった。ソウル市長自身が繰り返し強調するように最大の難関は「露天商」の問題だったのである。清渓川の通り沿いにひしめくようにして商売を営む6万5千人の生活はクルマよりもはるかに重要な問題だったのだ。ソウル市で、そうした商人対策を市長の特命で任されたのがチェさんであり、清渓川周辺で生計をたてる商人の代表がイさんである。対策する側と、対策の「対象」となる側である。説得する側と、抗議する側である。胸ぐらをつかまれる側と、殴りかかる側である。商人たちとなんと4200回にわたる話し合いを繰り返す間、終始ソウル市の方針と誠意を貫いたチェさんと、最後は「工事を早く終わらせることが全体の利益になる」と判断したイさん。敵対していた両者が、しっかり握手できた瞬間、2人が「ひとつ」になった瞬間、プロジェクトは最大の壁を突破した。工事はそこではじめてスタートを切れた。10月2日に開催した「世界都市河川ルネッサンス・フォーラム」には、この2人がノさんとシンさんとともに仲良く同席してくれた。実に仲良く!それぞれの利害関係においては決して一致できないはずの4人が、ほがらかにお互いの健闘を称えあうようにしながら、清渓川復活をともに祝う。4人は立場は異なっていても、「ソウルの幸福な未来」というビジョンを、言い換えれば「大きな物語」を共有している。われわれが主催する会議のテーブルに、まさに「Seoul isOne」の縮図があった。

5)聖なる川

10月1日午後。世界市長会議会場のロッテホテルから外に出ると、前日からの雨があがって薄明かりの射す街は次第に祝賀ムードに包まれる。ロッテホテルからも川までは歩いてすぐの距離だ。まったく清渓川は、ソウル市のあらゆる中心機能を周辺にしたがえた最高の立地にある。これからは街の空気も文化も経済も、いろんな意味でのソウルの“風”が清渓川から運ばれてくることになるだろう。ソウルに不案内の観光客も川をたよれば迷子になることはない。どこにいても川を感じる。どこにいても川の復活を祝う気分になれる。大統領やソウル市長およびチョウ・ヨンピルやBOAが登場するステージとして設けられた特設会場だけでなく、実際は街じゅうが清渓川フェスティバルの会場なのだ。ソウル市の公式発表によれば、この夜、川に繰り出したフェスティバル参加人数は30万人だったという。それだけでも愛・地球博の一日の最高来場者数を上回る数字だが、実際はそれよりはるかに多くの人々が、川が喜ぶ様を肌で感じながらお祭り気分に参加できていたにちがいない。夜の帳がおりる頃、いよいよ清渓川をメインステージにソウルの街は祝祭空間に変わる。市庁舎前広場ではクラシックの野外コンサートがはじまっている。アレルヤの大合唱だ。特設ステージではチョウ・ヨンピルが、BOAが、その姿をみせるや群集の大歓声が響き渡る。花火があがり、ネオンに彩られた噴水が縦横に宙を舞う。

一方で、大統領やソウル市長が見守るなか、韓国の山懐から汲みだされた聖なる水を清渓川に注ぎ込む崇高な儀式がおこなわれる。川の復元によって、都市に新たなイベントスペースがもたらされただけでなく、同時に「聖域」がもたらされたことを印象づける。民族衣装のパジ・チョゴリに身をつつんだイ・ミョンバク市長は、まるで祭儀をとりおこなう神官のようにみえる。政教分離の原則に不当に敏感な日本ではありえない状況ではある。だが、この“神官”の厳粛な面持ちにこそ、このプロジェクトの意義と本質があらわれている、と強くおもう。川を取り戻すことで、ソウルは何を取り戻そうとしたのか、深いところで腑に落ちるものがある。これは政治家の行き過ぎたパフォーマンスではない。ソウルは街のど真ん中にアジール(聖域)をつくりたかったのだ。清渓川をテーママークみたいだと評することしかできない人間には(そして多くの日本人にも)単純に信仰心が欠けている。「信仰」とは、言うならば「One」を実現するエネルギーのことである。

一連のセレモニーとイベントが終了するやいなや、特設会場や橋の上にいた群集がどっと川をめがけて移動をはじめる。橋の脇から階段やスロープをつかって簡単に川辺までおりられるが、たちまち行列はふくれあがり、このときばかりはテーママークや万博さながらに、“最後尾は30分待ち”の状態に。ようやく川におり立った人々は思い思いに川遊びをはじめる。両岸を黙々と下流まで行進する人の群れ、じゃぶじゃぶ水の中まで入っていく子供たち、どっかと岩場に腰を据えて話し込むカップルたち。橋の上から眺めるその光景は実にまぶしい。なんだかこの世の出来事とはおもえない。ざわめく嬌声と川の流れる音が響きあって、まるで天使のささやきに聞こえる。人々が足を踏み入れることで、清渓川はいよいよ聖化された空間と化す。たまらず、自分も行列に並んで川におり立つ。ソウル市民とともに喜びを分かち合う。

この夜、川につどった何万というソウル市民との「出会い」が、われわれにもたらした経験値の大きさは計りしれない。手前ミソになることを承知であえて言うなら、2005年10月1日のこの夜、この現場に居合わせた者でなければ、今後とも誰も清渓川について語る資格はない。そうおもえるくらい、川の復活に興奮し酔いしれた歴史的な一夜であった。

 ほんとうなら、ここから「世界都市河川ルネッサンス・フォーラム」の模様をお伝えしなければならないのだが、もう紙面が尽きた。ソウルと東京と、2度にわたるシンさんたちとの交流の中身については別の機会にゆずる。ともあれ、現地清渓川での経験を糧に、われわれ渋谷川ルネッサンスは東京の「春の小川」の再生に向かう。シンさんの「Dream will come true!」という言葉に励まされながら。